こんにちは。前回までは翻訳上達のための概論に続いて、翻訳に役立つ辞書のご紹介をしてまいりました。今回からは、より実践的な翻訳テクニックについてお話ししていきたいと思います。
まず3回にわたって、企業で使われるプレゼンテーション資料(スライド)の英訳を取り上げます。皆さんの中にも、会社で上司の方からスライドの英訳を頼まれる、企業クライアントからスライドの英訳依頼を受けるなど、プレゼンテーション資料の英訳をなさっている方がいらっしゃると思います。そこですでに出来上がっている日本語の発表スライドを、聞き手にわかりやすい、聞き手に響く英語スライドに仕上げるにはどうすれば良いかをお話しします。
なお、訴求力のある英語のスライドを翻訳ではなく、一から作るには、それはそれでテクニックが必要です。スライド作成を含む、英語での効果的なプレゼンテーションについては、その計算し尽くされた(でも聞いている側からすると計算されたようには見えない)プレゼンテーションスタイルが今なお多くの人のお手本となっている、アップル社の前CEO、故Steve Jobs氏のテクニックを紹介した本がありますので、興味のある方は参考になさると良いでしょう。
私も仕事柄、企業の日本語のプレゼンテーション資料をずいぶん拝見してきました。おしなべて一枚のスライドに文字や図表などの情報を盛り込みすぎる傾向があるようです。そのため文字も図表も小さくなり、会場の後ろの席に座っている参加者は双眼鏡でも使わない限り、とても読めないのではないかと思われるほどです。また、長い文章をスライドに入れている例も散見します。あたかも発表者用の読み上げ原稿をそのまま貼り付けたようです。これらは、専用ソフトを使えば誰でも比較的簡単にパソコンでプレゼンテーション用スライドが作れてしまうことの功罪でもあります。
一枚のスライドにぎっしり情報を詰め込んだり、長い文章をそのまま載せたりすると、そのプレゼンテーションを聞いている人は、発表者の話に耳を傾けるのではなく、そのスライドの文字を必死に目で追って読もうとします。それでは、まるでスクリーンに映し出されたスライドが主役で、その前に立つ発表者は脇役、添え物のようです。プレゼンテーション用のスライドはあくまで「visual aid」つまり「補助ツール」であり、本来の主役は発表者であるべきです。
とは言え、日本企業の多くは、プレゼンテーション資料に、本番用の「補助ツール」と、参加者の向けの「配付資料」やウェブサイトにアップする「公開資料」といういくつもの役目を負わせているのが実情です。ですから、プレゼンテーションを聞かずに、スライドのみで内容が十分掴めるように、要点だけでなく補足説明や参考情報までも満載した資料が出来上がります。この傾向はすぐには変わりそうにもありませんから、翻訳者としては、そうやって出来上がったスライドを是として対応するしかありません。しかしそれは一字一句忠実に訳せば良いということを意味するのではありません。
また、これはスライドの内容についてではありませんが、企業の日本語のプレゼンテーションスライドでよく見られるのが、
というやり方です。これらのスタイルを英訳にもそのまま反映させるのはお薦めできません。英文スライドでは、文に下線を引いたり、フォントを斜体にしたりすると、会場のスクリーンに映し出されたものを見る場合でも、パソコン画面で見る場合でも、またプリントアウトしたものを見る場合でも、読みにくくなります。フォントの種類やサイズ、色を一枚の中であれこれ変えるのも感心しません。括弧書きの補足説明も多用するとうっとうしく感じられます。スライドは発表者の都合だけでなく、聞く側にも配慮して作ることが大切です。私が以前手掛けたある企業のプレゼンテーション資料の英訳で、使う単語や表現は全く同じにして、スタイルを
の2種類で作り、クライアントにその両方をご覧いただいたことがあります。見やすさ、わかりやすさという点では②のスライドが圧倒的に優れており、結果的にそのクライアントには②の方を採用していただきました。
プレゼンテーション資料の英訳では「何も足さない、何も引かない」という基本原則を守ることが重要です。これは「日本語原文にないことは言わない、日本語原文にある情報を削らない」ということです。翻訳者の判断で、原文にない情報を勝手に付け加えたり、原文にある情報を勝手に削ったりすることは許されません。かといって、原文を一字一句忠実に直訳すれば良いというわけではありません。原文の情報を、その一字一句にはあまりとらわれずに、最も自然で、わかりやすい英語で表現するのが基本です。その際のポイントとなるのが次でご説明する「3C」です。
プレゼンテーション資料の英訳にも、連載の第1回でお話しした「3C」の原則が当てはまります。繰り返しますと、「3C」は「Correctness」「Clarity」「Conciseness」の頭文字をとったもので、それぞれ「正確さ」「明瞭さ」「簡潔さ」ということです。むしろ、プレゼンテーション資料ではその「3C」がより重要であると申し上げた方が良いでしょう。と言いますのは、正面のスクリーンに映し出されるスライドは発表者が話す内容に従って、どんどん切り替わっていきます。一枚のスライドが映し出されている時間は1〜2分程度です。それだけの短い時間で、発表者が主張するポイントを英語で的確にスライド上に示すためには、紛らわしい表現や曖昧な表現を避け、短く簡潔に表現する努力がなお一層求められます。手元にある文書や書籍であれば、ちょっとわかりにくい箇所があっても読み手は何度も読み返したり、辞書を引いたりして理解を深めることができます。しかし説明会のスライドではそうはいきません。じっくり読み返したり調べたりする時間はないのです。
このことは、取りも直さず、先ほど申し上げた「スライドは発表者の都合だけでなく、聞く側にも配慮して作る」ということに他なりません。ですから、オリジナルの日本語版スライドが、発表者の都合で「あれも言いたい、これも言いたい」と詰め込み型になっていたとしても、あるいはそこで使われている用語や表現が聞き手にどう聞こえるか、どう受け取られるかという観点からの配慮があまりなされていないスライドであったとしても、それを英訳する際には、「日本語原文にないことは言わない、日本語原文にある情報を削らない」という基本線を守りつつ、「3C」の観点から聞き手に「響く」スライドに仕上げることがプロの翻訳者には求められます。手前味噌になって大変恐縮ですが、私が英訳したプレゼンテーション資料が「オリジナルの日本語版より、わかりやすい」との評価をクライアントから頂戴しているのも、それを常に心がけているからだと思います。
日本語のプレゼンテーション資料を英訳する際、そのプレゼンテーションが誰を対象にしたものなのかがわからないまま英訳するということはまずないと思います。もしクライアントからプレゼンテーション資料の英訳を依頼された際、誰に向けたものなのかがわからなければ、必ず確認するようにしてください。新しい人事制度を従業員に説明する、新製品をプレス向けに発表する、投資家向けに決算を発表する、顧客向けに新サービスを売り込む、学会で研究発表を行うなど、プレゼンテーションの対象や目的は多種多様です。それによってプレゼンテーション資料を英訳する際に、訳調を少し変える必要がありますし、専門用語(jargon)や略語の使い方についても、誰が聞くのかによって配慮が必要になります。
一口に企業のプレゼンテーション資料と言いましても、以上のように様々ですから、この後でご説明する注意点は、「投資家に自社の事業方針を説明する際に使うスライドを英訳する」というケースを想定したものです。もちろん考え方は、それ以外のケースにも当てはまります。
では、具体的なテクニックに移ります。
皆さんは日本語でプレゼンテーション資料を作るとき、個々のスライドのタイトルをどうやって決めておられますか。あまり深く考えずに、適当につけていらっしゃるということはありませんか。英訳のご依頼をいただくプレゼンテーション資料の日本語スライドのタイトルに多いのが、
などです。こういう問題ありの日本語のスライドタイトルに遭遇したときは、「何も足さない、何も引かない」の原則からは少し外れてでも、より適切な英語タイトルに仕上げるのがプロの翻訳者の腕の見せ所です。「ありきたりなタイトル」をどうやってより訴求力にあるタイトルに変えるかを例でお見せしましょう。
会社の事業方針を説明するプレゼンテーション資料ではスライドタイトルに体言止めがよく使われます。例えば「構造改革の必要性」「海外市場開拓戦略」「新製品導入時期の最適化」などです。これらをそのまま英訳すると、
となります。何の変哲もない、ごくありふれた英語タイトルですね。実際に企業の英語版資料で見かけるのはこういった感じのスライドタイトルがほとんどです。これで通じないということはありませんが、あまり訴求力がありません。何故でしょうか。それは、ここで使われているのが「抽象名詞」ばかりだからです。「necessity」「strategy」「development」「optimization」「introduction」はいずれも抽象名詞です。しかも、「strategy」にしても、「development」にしても、「optimization」にしても、企業のプレゼンテーション資料に頻繁に登場する用語で、言わば使い古された言葉です。様々な企業のプレゼンテーションを聞いている投資家は、きっと「ああ、またあの話か」と思うでしょう。抽象名詞は静的、客観的、概念的であり、そこからは具体的なアクションがイメージできません。もしこれが、経営コンサルタントが大勢の企業トップを前にして、会社経営の一般論を語るのであれば、こういった抽象名詞をスライドタイトルで使っても良いでしょう。それはコンサルタントが説明しているのが、自ら実践していることではなく、客観的な理論だからです。しかし、企業が自社の事業方針を説明するのは、一般的な概念論の話をするのではなく、自社が当事者として実際に取り組んでいることの成果や、取り組もうとしている具体的な施策を語るわけですから、こういう抽象名詞ばかりが並んだ、まるで他人事のようなタイトルではその会社の意志や姿勢が聞き手に伝わりません。
スライドのタイトルは、発表者が「今からこれについてお話をしますよ」ということをスライド上にまず大きく示すことで、聞き手に心の準備をしてもらうためのものです。「私たちはこういう取り組みをしています、していきます」ということをタイトルで明示する必要があります。その視点で先の英語タイトルを書き直してみましょう。
どうでしょう。「必要性」は「why」に、「戦略」は「how」に、「最適化」は「when」で表し、いずれも抽象名詞ではなく、「restructure」「develop」「introduce」というアクション動詞を使って表現しました。先ほどの平板なタイトルに比べて、その企業がやろうとしていることがよりはっきり伝わるのではないでしょうか。各スライドのタイトルを、このように「何をどうするのか」をストレートに表現したものに変えるだけでも、そのプレゼンテーションが与える印象がよりポジティブなものに変わってきます。ただし、全部のスライドをこのやり方で作るとワンパターンになってしまいますので、名詞だけで表現したタイトルなどとも適宜組み合わせて変化をつけることも必要です。
では、もう一歩進んで、よりインパクトのあるタイトルにブラッシュアップしてみましょう。
いかがでしょうか。これらは日本語タイトルのエッセンス、すなわち「要するにそれは何のことか、何が言いたいのか」をとことん突き詰めて、それを英語らしい、訴求力のある表現にしたものです。「必要性」は「why...now」で今まさに取り組むという感じを、「開拓戦略」は「capture」(攻略)の一語で積極さを、また「導入時期の最適化」は「right products」と「right times」の組み合わせでその意味を表しました。これらの日本語を和英辞書で引いても、まずこういう訳語は出てきません。また日本企業の英語版プレゼンテーション資料ではめったにお目にかからない表現です。「えっ、ここまでやると原文から離れすぎでは」「クライアントがウンと言わないのでは」と思われるかもしれませんが、先ほどお話ししたスライドタイトルの重要性を考えると、プロの翻訳者ならタイトル1つでもここまで徹底的に練り上げ、クライアントに提案できるようにしたいものです。くれぐれも「必要性=necessity」「戦略=strategy」「最適化=optimization」と辞書的、機械的に当てはめないで、もっと柔軟かつ大胆な発想を駆使してください。そして、どうすれば聞き手により響くタイトルになるかを考え抜いてください。どこにでもあるような、ありきたりなタイトルでは聞き手の興味を引きつけることはできないのですから。
ということで、実践編の初回はプレゼンテーション資料を取り上げました。次回も引き続きプレゼンテーション資料の英訳テクニックについて、具体的な例をあげてお話しします。
では、また。
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