こんにちは。「翻訳よもやま話」の第2回は「翻訳のスキルをどう磨くか」というテーマを取り上げます。
翻訳に興味をお持ちの方や翻訳を仕事として始められてまだ間もない方から、「どうやったら翻訳がうまくなりますか?」という質問をよくいただきます。それに対する私の答えは「どんな仕事でもそうでしょうが、こうすれば翻訳がたちまち上達するという近道はありません。あくまで毎日地道に勉強と努力を積み重ねるしかありません。」です。何か秘訣のようなものを期待していた皆さんはがっかりされますので、「翻訳家としての基礎力を身につける方法ならいくつかあります。誰でも役に立つのは、①英文法をおさらいする、②英語の句読法をマスターする、③英文をたくさん読む、の3つです。」と申し上げます。それでも「なーんだ」というような顔をされますので、なぜその3つが大切なのかをもう少し掘り下げて説明すると、話が終わる頃には皆さん大抵納得されます。
ということで、翻訳の基礎力をつけるための3つのアプローチ、①英文法をおさらいする、②英語の句読法をマスターする、③英文をたくさん読む、について具体的にお話ししていきます。
何で今さら英文法と思われるかもしれません。高校の退屈な英文法の授業を思い出して、関係代名詞だの、現在完了進行形だの、文法と聞いただけで頭が痛くなるという方もいらっしゃるかもしれません。しかし、日本語の文法同様、英語の文法も言葉の発信者と受信者の間の約束事ですから、自分の書いた英語を正しく読み手に伝えるためには、その約束事は無視できないのです。ルールを守らないと、意図したことが読み手に伝わらなかったり、誤解されたりします。
そこでその基本的なルールをもう一度おさらいするわけですが、そのために新しく英語の文法書を買う必要はありません。高校生のとき使った英文法の参考書がまだ本棚に入っていれば、それを引っ張り出してください。例えば、数十年前に初版が出て、私も大学受験でお世話になった『英文法解説』(江川泰一郎 著)は今なおロングセラーを続けていますから、使った方も多いでしょう。そのお手持ちの参考書の最初のページから目を通していってください。おそらく皆さんも受験勉強では英文法の参考書を最初から最後まで読破されたことはなかったと思いますので、きっと思わぬ発見があるはずです。うろ覚えだったり、間違って理解したりしていたことも「あっ、そうか」と気づくこともあるでしょう。英文法の参考書を読み通すのは苦痛でも、それを乗り越えたとき、大いなる満足感と自信が得られます。
ここで、何が「正しい表現」で、何が「間違った表現」かについて一言。英語も日本語も、言葉は生き物ですから、以前なら「こういう使い方は誤用」とされていたものが、それを使う人が多くなってくると、「正用法ではないが、一般に広まりつつある」と認知されてきます。例えば、日本語で「全然」という言葉があります。ちょっと前の国語辞典には『「全然」は後に否定形を伴う。例:全然売れない小説家』という説明しかありませんでしたが、最近の辞書には『肯定表現を強調するためにも用いられる。例:全然かわいい』という説明が付け加えられています。英語でも、文法書では誤用とされる表現を、英語を母国語とする人が使っている例を目にすることがあります。これは私が今読んでいる中東紛争史をテーマにした本にあった例です。
文法書では、「The reason...is because...」は誤用で、「The reason...is that...」が正しいと教えていますが、「The reason...is because...」の形もこの例のように教養ある人が使うこともあります。
だからといって日本人も「The reason...is because...」と書いて良いかというと、正用法はあくまで「The reason...is that...」ですから、それを使うべきです。特にビジネス文書は正用法で書くのが基本です。先ほど例にあげた、肯定表現を従えた「全然」も、小説などで若者同士の会話の中で使うのならまだしも、正式なビジネス文書や企業のウェブサイトで使うにはまだまだ違和感があるのと同じことです。
句読法(punctuation)は、日本語では、せいぜい句点(。)、読点(、)や括弧(「 」『 』)の使い方くらいしかありませんが、英語では実に多彩です。カンマ(,)やピリオド(.)、疑問符(?)や感嘆符(!)、引用符(“ ”)、アポストロフィ(')、コロン(:)、セミコロン(;)、ハイフン(-)、ダッシュ(—)などの記号に加え、表記という点では大文字 (capitalization)や斜体(italics)の使い方、数字の表わし方もあります。これらの使い方を皆さんはマスターされていますか?お馴染みのカンマも、そのあるなしで意味が変わってきますので、決しておろそかにできません。例をあげます。
「brother」の後にカンマのないaは、「私には何人か兄弟がいて、そのうちの一人がJohn」という意味なのに対して、「brother」の後にカンマのあるbは、「私には兄弟が一人しかおらず、それがJohn」という意味になります。ですから「my wife Jane」とカンマなしで書くと、とんでもない誤解を与えてしまいます。その理由はもうおわかりですね。
こういった句読記号や表記法を駆使することで、英文の表現の幅がぐんと広がり、文章に微妙なニュアンスを付加することもできます。特にコロンとセミコロンは日本人にとって使いこなしが難しい記号ですが、ビジネス文書では大いに威力を発揮しますので、ぜひマスターしてください。
スペースの関係で、これらの記号一つ一つについての説明は省略しますが、その細かな使い方を知るには英文スタイルガイドが役に立ちます。英米で出版されているスタイルガイドには、『The Chicago Manual of Style』という大部のものから、私が愛用している『Merriam-Webster's Guide to Punctuation and Style』という手頃なペーパーバックまで様々なものがあります。
どれを選ぶにせよ、気をつけなければならないのは、①米国と英国ではpunctuationのルールが少し異なるということと、②米国で出版されているガイドでもガイドによって異なる使い方を推奨している場合があることです。ですから、複数のスタイルガイドをあちこちめくるより、どれか1冊を選んで、それを徹底的に使いこなす方が、自分が書く英文が統一されたものになります。
翻訳の基礎力を身につけるには、英文法のおさらいをしたり、句読法をマスターしたりするのももちろん大切ですが、それ以上に、とにかく英文をたくさん読むことが重要です。私はよく「浴びるほど読め」と言っています。私も達意の英文が書けるようになるには、まだまだ修行が足りないと常々自分に言い聞かせています。それでも多少なりともお客様にご満足いただける翻訳ができているのはなぜだろうかと振り返ると、これまでに何百冊と英語の書物(新聞や雑誌まで含めると相当な量)を読んできた積み重ねが効いているように思います。日本人が英文を書くというのは、単語の使い方や表現の仕方を自分で編み出しているのではなく、所詮は英語を母国語としている人たちの単語の使い方、表現の仕方、文章の組み立て方を真似たり、借用したりしているわけです。となると、その真似をする元になるものを持っていないと英文は綴れないはずです。その元になるものこそが、英文を読むこと(インプット)を通しての単語や表現の蓄積です。また表現だけでなく、論旨の展開の仕方、ロジックの組み立て方、主語の立て方など全てです。そういったものが自分の中に十分にストックされていて初めて、まともな英文が書けるのです。考えてみますと、日本人が日本語の文章を綴るときも、言葉の使い方や表現方法は、子供の頃から他人様の書いたものを読んでストックしてきた中から引き出しているわけで、独自の表現を編み出しているわけではありません(小説家は別として)。それと同じことが英文を書く場合にも言えます。
じゃあ、何を読めば良いかというのは、これはもう人様々で、自分が興味のあるジャンルの単行本や雑誌、新聞など、何でも良いのです。ただ、気をつけていただきたいのは、①英語を母国語とする人が書いた文章を読むということと、②ネットの記事やブログなどは結構言葉づかいがいい加減だったりしますので、できれば避けたほうが良いということの二点です。
その英文の読み方も、わからない単語をいちいち辞書で調べていると、読書の流れが中断してしまいますから、その単語の理解が決定的に重要な意味を持つ場合は別として、多少わからない単語が出てきても、読み飛ばして先に進みます。ただし漫然と流し読みをするのではなく、面白い表現などには印をつけておき、後でノートに書き取ったり、切り抜いてカードに貼り付けたりします。そのノートやカードの蓄積が皆さんの個人ストックになります。何に印をつけ、何を用例として採取するかは、その人の英語に対する問題意識の持ち方次第ですので、こうしなければならないという決まりはありません。私の場合は、①日本語の発想からは出てこない、いかにも英語らしい表現、②誤用とされている表現が使われている例、③アメリカの文化的、社会的、歴史的背景を背負った単語などを中心に収集し、カード化しています。その作業は大学時代から始め、それが積もり積もって今ではカードも数万枚(さらに未整理のものが数万例)になっています。それをもとに「現代英語表現辞典」を編みたいものだと常々思っていますが、いつになることやら。
①のいかにも英語らしい表現というのは、例えばこんな表現です。
大学時代に読んだ推理小説の中で場末のバーを描いたシーンがあり、そこで客の一人がバーテンダーに向かって
“Beer gets through me very quickly.”
と言います。これは要するに「ビールを飲むとトイレが近くなる」ということです。それを英語では「ビールが私の身体を素早く通り抜けていく」と表現しているのです。日本語にはない発想です。何十年も前に読んだ小説ですが、この表現はいまだに覚えています。ちなみに、LAでの駐在時代に、アメリカ人の同僚相手に飲み会の席でこの表現を使ってみたところ、そのアメリカ人は笑いながら“Yeah, it sure does.”と言っていましたので、普通に通じる英語であることは確かです。
②の誤用例は先ほどご紹介しましたので省略し、③のアメリカの文化的、社会的、歴史的背景を背負った単語というのは、例えばこんな単語です。
ここでは「apple pie」はアメリカ人にとっての伝統的価値観や神聖不可侵なものの象徴として使われています。「きわめてアメリカ的な」という意味で「as American as apple pie」というイディオムもあります。またアメリカ人にとってapple pieはいわゆる「おふくろの味」とも言え、「Mom's apple pie」という表現もよく出てきます。こういった単語を拾うのも読書の楽しみの一つです。
日本語を英語に翻訳するというのは、日本の文化を英語圏の文化に移植することでもあります。日本人はアメリカ人やイギリス人にはなりきれませんので、せめて読書を通じて英語の文化的、社会的、歴史的背景に触れ、アメリカ人やイギリス人なら誰でも身についている常識やものの考え方を理解することは、翻訳にもきっと役立つはずです。
ということで、連載第2回は「翻訳のスキルをどう磨くか」ということについてお話ししました。次回は翻訳には欠かせない辞書について「辞書の選び方、使い方」というテーマでお話しする予定です。
では、また。
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