こんにちは。「翻訳よもやま話」の第3回のテーマは「辞書の選び方、使い方」です。内容が多岐に渡りますので、前編、中編、後編の3回に分け、今回はまずその前編です。
翻訳者にとって辞書は片時も手放せない大切な商売道具の一つです。どんなベテラン翻訳者でも、辞書の助けなしに翻訳を行うことは恐らく不可能ではないかと思います。私の仕事部屋にも大小様々な辞書が所狭しと並んでいます。英英辞典、英和辞典、和英辞典はもとより、国語辞典、特殊辞典や分野別辞典など、きちんと数えたことはありませんが、全部で恐らく300冊は下らないでしょう。もともと大学生のころから辞書集めを趣味とし、それが高じて今では300冊を超えるライブラリーとなりました。その大学時代から使っていて、背表紙のタイトルがすっかりかすれてしまったものから、つい先週Amazonから購入した『Dictionary of Modern English Usage』の最新版まで、これらの辞書は私と英語との関わり合いの何十年に及ぶ歴史そのものでもあります。
とてもその300冊を全部ここでご紹介することはできませんので、国語辞典、英英辞典、特殊辞典、分野別辞典の中から私が翻訳作業で特に頼りにしているものを中心にご紹介します。(英和辞典、和英辞典はすでに皆さん愛用されているものがおありでしょうから、取り上げません。)
今では紙の辞書だけでなく、携帯型の電子辞書、パソコンにインストールする辞書、スマートやタブレット用の辞書アプリ、無料のオンライン辞書など様々なタイプが利用できます。特に辞書アプリは元になっている紙版の辞書より随分安く買えることが多いので魅力的ですね。このように辞書の電子化が進むにつれ、「紙の辞書はもはや不要ではないか」という議論があります。私は「それでも紙の辞書は手放せない」と思っている一人です。一つには、手持ちの300冊を超える辞書のうち、発行年が古かったり、特殊な分野であったりするために電子化されていないものや今後も電子化されることはなさそうなものが7〜8割はあるからです。さらに、紙の辞書なら目指す単語とその前後の単語がページ上で一覧できます。派生語を知るのには便利ですし、一つの単語にたくさんの品詞、意味や熟語まである単語では、紙の辞書の方が目的の定義にたどり着きやすいということもあります。また紙の辞書には、単語の意味を知るために引くだけでなく、気ままにパラパラめくって説明を読むという楽しみもあります(「読む辞書」については後述します)。
一方、ウェブのページを読んでいたり、パソコンの画面で翻訳対象の文書に目を通していたりしていて、わからない言葉が出てきたら、その単語をマウスでハイライトして右クリックするとパソコンにインストールされている辞書が起動し、たちどころに定義がボックス内に表示されるのは実に便利です。
ですから、「紙の辞書か電子辞書か」と二者択一的に考えないで、辞書を使う場面や目的によって使い分ければ良いのではないでしょうか。
10年前に職業として翻訳を始めたとき、英語関係の辞書はすでに200冊以上持っていましたが、国語辞典はたった1冊しかありませんでした。それも片手で持てる収録語数6〜7万語程度のものです。理由は「それで特に不便を感じなかった」からです。
しかし翻訳を本格的にやり始めると、わからない言葉の意味を手っ取り早く知るには小型辞書でも間に合うものの、言葉の使い方を確認するにはそれでは不十分でした。そこで日本語の文章を正しく理解する、また正しい日本語で訳文を綴るために大型の国語辞典を何冊か買い求めました。小型の国語辞典では言葉の意味(語釈)といっても、類義のことばをいくつか並べてあるだけということが多いのに対し、大型の国語辞典になると語釈がより詳しくなっています。
中でも私が最も重宝しているのが、『学研国語大辞典』(学習研究社)です。サイズは『広辞苑』(岩波書店)などの大型辞典並ながら、収録語数はわずか10万語強(ちなみに『広辞苑』は20万語以上)と、小型辞典と大差ありません。語数が少ないのは他の大型辞典のような固有名詞や百科的な項目を収録していないからで、純然たる「言葉の辞書」に徹しています。基本語を含む、一つ一つの見出し語に対する解説が丁寧で、しかも実際の小説や新聞などから収集した用例がフルセンテンスの形でふんだんに添えてあり、また類語や言葉と言葉の結びつきに関する解説もあるなど、言葉の使い方がよくわかります。文章の書き手には強い味方です。ただすでに絶版になっているため、残念ながら店頭には並んでいません。古書店でならまだ手に入ると思います(実は私も古書店で買いました)。
英語を日本語に訳していて、ある英単語に対して英和辞典に載っている訳語、あるいはその英単語に対して自分がいつも当てている日本語では、その文脈の中でどうもしっくりこないということがよくあると思います。その文脈に合った日本語を選びたいとき皆さんはどうされますか。ピッタリした日本語が浮かぶまで頭の中で、あれでもない、これでもないと悩みますか。そんなとき、ヒントを与えてくれるのが類語辞典です。
日本語の類語辞典には、①見出し語に意味が近接している言葉、関連する言葉をできるだけたくさんあげているがそれぞれの意味の違いは説明していない、いわゆる「thesaurus」と呼ばれるタイプ、②見出し語に対して、意味が似ている言葉を並べ、それぞれについて意味や使い方の違いを説明したタイプの2種類があります。
前者のthesaurusタイプには『早引き類語連想辞典』(ぎょうせい)、『日本語シソーラス 類語検索辞典』(大修館書店)などがあります。英日翻訳で、英和辞典に載っている訳語をそのまま使えるケースは必ずしも多くありませんので、こういったthesaurus系辞書を活用して、文脈に合ったより適切な訳語を選ぶようにすると、訳文の質がぐんと上がります。
もう一方の類語の意味の違いまで解説した類語辞典は各社から様々なものが出版されていますが、個々の類語の説明が簡潔すぎるものは避けた方が良いでしょう。それぞれをどう使い分けて良いのかわからないからです。英日翻訳で日本語の類語の使い分けに悩むのは、難解な単語より、一見ありふれた単語の方が多いと思います。例えば皆さんは「意思」と「意志」の違いをはっきり説明できますか。類語一つ一つについてニュアンスの違い、使える場面などを丁寧に説明してくれるものには『日本語 語感の辞典』(岩波書店)と『類義語使い分け辞典』(研究社出版)などがあります。
前回第2回では「翻訳の基礎力をつけるための3つのアプローチ」をご紹介しましたが、「英語が好き」「日本語に関心がある」「言葉やコミュニケーションに興味がある」ことも翻訳者に求められる属性ではないでしょうか。もちろん言葉に大して興味がなくても翻訳という作業はできます。でもそれでは作業が機械的になり、仕事としては長続きしないように思います。
私は若いころから、言葉に対する関心は人一倍高かったほうだと思っています。それが翻訳の仕事を始めるようになって、英語に対する関心はもちろんのこと、日本語に対する興味も俄然深まりました。それは50年を超える自分の人生の中で、昔から使われてきた美しい日本語、味のある日本語をいかに知らないかということに愕然としたからでもあります。そこで『日本国語大辞典』(小学館、全14巻)、『故事俗信ことわざ大辞典』(小学館)、『江戸時代語辞典』(角川学芸出版)、『古典基礎語辞典』(角川学芸出版)、『日本の歳時記』(小学館)、『日本俗語大辞典』(東京堂出版)という大型辞書を買い揃え、暇を見つけてはぱらぱらめくって言葉の散策を楽しんでいます。こういう辞書を手にしなければ、一生知ることがなかったであろう言葉にたくさん出会いました。これらは「引く辞書」というより「読む辞書」です。言葉は、人が世の中の事物や事象をどう切り取り、どう感じ取ったかを映し出すもので、これらの辞書をながめていると、日本人の物の見方や意識が時代と共にどう変化してきたか、あるには、時代が変わってもいかに変わっていないかがよくわかります。例えば「本当に、本気で」という意味で現在使われる「まじ」という言葉が、実は江戸時代から使われていたことが『江戸時代語辞典』を見るとわかります。また『故事俗信ことわざ大辞典』には「恐れ入谷の鬼子母神」や「その手は桑名の焼きハマグリ」といった今ではあまり見聞きすることのない遊び心たっぷりの言い回しも載っています。翻訳にこれらの大部の辞書がどうしても必要というわけではありませんが、日本語の歴史的、文化的、社会的背景を知ることで、間接的に日本語の表現力を豊かにしてくれるのではないでしょうか。
将棋は「指す」もの、碁は「打つ」もので、「将棋を打つ」「碁を指す」とは言いません。このようにある言葉がどういう言葉と結びつくかが慣用的に決まっているものがあります。そのような語と語の準固定的な結びつきを「collocation」と言います。日本人なら日本語のcollocationは自然に身についていますが、英語となるとどうでしょう。例えば「検査を行う」を英語で言いたいとき、名詞「test」にはどういう動詞を組み合わせたらよいでしょうか。「do a test」でしょうか、それとも「make a test」でしょうか。どの組み合わせが適当かを知るには『Oxford Collocations Dictionary for Students of English』(Oxford University Press)が便利です。この辞書は9,000語の名詞、動詞、形容詞について、どういう単語と慣用的に結びつくかという例を25万もあげています。例えば先にあげた「test」(名詞)を引くと、それを目的語とする動詞にはcarry out、conduct、do、perform、runがあることがわかります。書名に「for Students of English」とあるように、英語を外国語として学ぶ人のために編集された辞書で、自然な英語を書くためには必須の辞書と言えます。私の日英翻訳作業で最も使用頻度の高い辞書がこれです。
英文ライティングでは「一つの文、一つのパラグラフの中で同じ単語を繰り返さない」という原則があります。アメリカ人は小学校からこのことを徹底して教えられます。例えば、以下の文章をご覧ください。ガイスナー元米国財務長官の回顧録の一節です。
太字の「failure」「collapse」「fall」はいずれも「倒産、経営破綻」という意味ですが、同じ単語を使わないで、たった一つの短い文の中でも別々の単語を当てています。
一つの文の中だけでなく、一つのパラグラフであっても、同じ単語を繰り返すと「稚拙な文章」という印象を与えてしまいますので、似た意味の別の単語を当てる必要があります。また日本語の文章を英訳している最中に、どうもこの英単語ではしっくりこない、別の適当な単語はないかと思うこともあります。ではどうやって似た意味の単語を見つけるか。そこで活躍するのが、先の「日本語を書くための辞典」でもお話ししたthesaurusと類語辞典の英語版です。ここで注意していただきたいのは、日本人が英文を書く場合、似た意味の単語がいくつもただ並んでいるだけのthesaurusは必ずしも使い勝手が良くないということです。その中のどれを選んで良いのか、それぞれニュアンスがどう違うのかがわからないからです。ニュアンスの違いや使い分けまで説明してくれる類語辞典の方が翻訳や英文ライティングには役立ちます。
私が翻訳の際にいつも手元に置いている類語辞典が、『Merriam Webster's Dictionary of Synonyms』(Merriam Webster)と『Longman Language Activator』(Pearson)です。前者は類義語個々の違いを、厳密な定義と豊富な引用例(citation)を駆使して説明しています。後者は学習者向けなので、どういう場合にどの単語を使えば良いのかを懇切丁寧に教えてくれます。どちらも結構ボリュームがありますので、よりハンディなものとしてはペーパーバック版の『The Merriam-Webster Dictionary of Synonyms and Antonyms』(Merriam Webster)があります(ただし収録語数は少ない)。
以上あげた辞書は日英翻訳だけでなく、英文ライティング全般で役に立つものです。
ということで、連載第3回は「辞書の選び方、使い方(前編)」というテーマでお話ししました。今日ご紹介した辞書を揃えれば誰でも質の高い翻訳ができるというものではありません。しかし、これらの辞書の助けなしに質の高い翻訳を行うのは至難の業であることも確かです。また辞書を揃えても本棚に入れっぱなしでは意味がありません。翻訳の質を上げるには「辞書を引く手間を惜しまない」ことが重要です。納期が迫っていたりすると、ついつい辞書を引かず、自分の知識の範囲内で済まそうとしてしまいがちです。辞書を過信するのも禁物ですが、うまく使いこなせば辞書は皆さんにとって良き相棒になってくれます。
次回は「辞書の選び方、使い方」の中編をお届けします。
では、また。
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